JR神原駅北口改札を背にし、左手へ進むと50mもしないうちに飲み屋街が出現する。そして四星銀行と大山そばの間の路地を通るとネオン街でにぎわっている。その小道を突き進んでいくと行き止まりになる。しかしよく見ると地下へと続く階段があり、そこにはこじんまりとしたBAR「ZODIAC」が存在した。
恐らく誰からも気づかれないそのBARに行くのはよほどの者好きかよほど何かに悩み、自分の歩いている位置が分からなくなっている者のどちらかだ。「常連客は?」と思う者がいるかもしれないが、常連客は綾香を除いて他にいない。居心地がとてつもなく悪いのか、はたまた出されるお酒が悪いのか。とにかく誰も「2度来店することはない」お店である。
席は4席しかない。しかも1番奥の席はいつも綾香が座っている。綾香はろくにお酒を飲まず、席には大きくてありがたみがなさそうな水晶が紫の座布団の上に置かれていた。下部にはヒビが入っているが、綾香にしか見えない。
ギィィィとドアが開く音がした。
不愛想なマスターはドアの方を一瞥した。ぱっと見30手前位の中肉中背の男性である。シックなスーツを身にまとっていた。高級なスーツという訳ではないが、着こなしが良いためだろう、それが海外から取り寄せた高級スーツであるような錯覚を抱かせた。
身なりは人を表す。つまり彼は実年齢より相当若く見えるタイプだ。つまり、若く見えるようでいて実は50前後なのではないか。綾香はその線もあり得ると思った。
客が入ったというのにも関わらず、マスターは視線を手元に落とし何事もなかったかのように振舞っていた。その代わりと言っては何だが1番奥の席に座っていた女、綾香が「いらっしゃいませ」と声をかけた。
客は入口から数えて2番目の席に座る。綾香の隣1席分が空いている状態である。誰が薦めるわけでもないが、綾香が1番奥に座っているからか、そこに座る客が多い。
なぜか奥の席から綾香が聞く。
もはや他の選択肢がなかったかのように男はそう答えた。
その自信なさげな表情は悩み事を抱えている事を示唆しているように思えた。恐らく恋の悩み事。きっともう少し遊んでいたいのに年下の彼女から結婚を迫られてにっちもさっちもいかなくなった。その状況下で「子供が出来たんだけど」なんて言われたのではないか。歯切れの悪い返事と身なりからこの男の人生をそこまで推測した。
バーテンダーが無言でお酒を差し出した。
代わりに綾香が口を開く。
綾香の予想はことごとく外れた。いや、正確に言うと結果的には予想は的中していたのだが、それは答えがたまたま合っていただけであって式は大きく異なっていた。
かなり予想外の出だしに綾香は思わず声を出しそうになった。
自信なさげなのに口は止まらなかった。黙っていたら永遠と話してしまいそうだったので綾香は口をはさんだ。
綾香は水晶のに手を近づけ「いかにも」という感じで両方の掌の間から水晶をのぞき込んだ。
男の表情から不安が少し消えた。
しめしめという表情の綾香だったが、初めてマスターが口を開いた。
2人共驚いた表情だったが綾香は「はいはい」という表情をしていた。
「ありがとうございました」と言う男の背中は少し晴れているような感じもするが、まだ結婚するぞという強い意思は見られなかった。
男は振り向いた。
綾香は昔流行ったアニメのうさん臭いセールスマンの真似をして人差し指を男に向けた。
男の表情からは迷いが消え、力強くドアが開かれた。