別に霊感が強いというわけでもないし、幽霊や妖怪といった類を信じているわけでもない。それでも僕は幼少期からしばしば妙に心地よい怪奇現象に見舞わされていた気がしていた。気がしていたというのは、確証がないからだ。彼らに会ったのかも知れないし、会ってないかも知れないというあやふやな記憶しかない。
いつも気づくとどこかで眠ってしまっていたのだ。そういうことを考えれば夢の中の出来事だったともいえる。しかし、相手に触れた感触だったり、恐怖感だったり、高揚感だったりというのが目覚めてからも残っている。だから一概にたんなる夢ではないのではないだろうかという半ば確証じみた感覚がある。
幼少期に姉に一度だけ話したことがあるが「それは夢だよ」と一蹴されたため、それ以降誰にも言わないようにしている。確かに僕自身そんな話を持ちかけられても「それはまたリアリティのある夢を見たね」なんていいかねないし。
いずれにせよ、斯波源之助(シバゲンノスケ)は現実と夢の狭間のようなところで彼らに出くわす。
ああ、また例のアレか、と僕は思った。
そしてこの状態での僕は意識がはっきりしている。そのためこれは口裂け女だろうなと瞬時に分かった。そして僕はこんなこともあろうかと前もって用意しておいたセリフがある。「中の上ぐらいじゃないですか?」だ。
彼女は綺麗と言われた後で化け物じみた扱いをされるから気分を害するのだ。初めから「美人」と言わなければそうなることもなく、わざわざマスクを取って「これでも!」なんて言ったりしてこないだろう。
しかし僕も思う節があった。いきなり「私綺麗?」なんていうのは余程の性格ブスだなと。もし自分の身の安全が保証されるのであればそのクレームじみた説教をしてみたいと常々思っていた。しかし口裂け女に説教したところでなんにもならないし、武器を隠し持っているかも知れないため、あらかじめ用意しておいたセリフを言おうと思った。
ところが声が妙に可愛かった。しかも透き通る様な綺麗な肌に誰もが振り返りそうな艶っぽい黒髪。凛としたたたずまいも申し分なかった。スタイルは抜群でまさに2次元から飛び出してきたのではないかと言っても過言ではない。
吸い込まれそうな目をしていて、マスクがあるもののとても「中の上」で収まり切れるルックスではなかった。
はっきり言って一目惚れに近かった。こんな子を横に連れて歩いたらどんなに羨望の眼差しで見られるだろう。
勢いよくマスクを取ったその女性は僕が驚くのを待っていた。そして攻撃しようと企んでいた。武器は見えなかったが手を体の後ろに回し鉈やら包丁やらを出す、そんな準備をしていた。
しかしそれらが出てくることはなかった。
その女は急に顔を赤らめた。恐らく顔が綺麗ということは自他ともに認めていたのだろう。だからマスクをしていたら誰からも綺麗だと思われている。そういう自負があったのだ。しかし裂けた口は自分でも化け物じみたように思えている。だからそんな口を見られてもなお「綺麗」と言われるとは一ミリも想像していなかったのだ。
その女性はしゃがみこんで泣き出した。
僕は自分でもよくここまで冷静でいられるなと思った。彼女には悪いけど、どんなに可愛くても口が裂けていたら可愛いと思えないだろうし、縫合でもすればいいのにと常々思っていたからだ。
しかし、口端が裂けて広がってしまっている女性を目の前にしても「可愛い」としか思えないのだ。というより口に気が回らないほど全てが気に入っていた。
なんなら「この子になら殺されてもいいのではないか」そこまで心酔することができた。
僕は一瞬だけためらった。口が裂けているから嫌だとかそういうことではない。ただ単に幼少期を除いて女性といい雰囲気になったこともなければ手を握ったこともないためだ。
だが「ここで手を握らなければ僕が嘘をついていると思われてしまう」そんな思いが僕を突き動かした。自然と隣に座り、毅然とした態度で手を握ることができた。
その女性は僕の肩に頭をもたせかけた。
女性は言った。
僕は心の中で呟いた。
しかし僕の目がぼやけてきたのか、女性が薄くなっていくような気がした。何か呟いている様にも思えるが、瞼を開けることが難しくなった。
唇に何かが触れたような気がして急に目を覚ました。
悲しいような、嬉しいような。そんな夢を見ていた気がするが、ベッドに落ちた衝撃で思い返す気にもならなかった。時計を見たらまだ起きなくてもいい時間だった。
僕は自分でも何を言っているのか訳のわからない言葉を呟き再び眠りについた。