ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
階段を登り始めたのになかなか上がってくる音がしてこない。
こういう場合考えられることは2つある。1つはヴィラに来たことがない人が間違えて階段を登ろうとしたものの、間違いに気づき静かに戻っていったパターン。もう1つは綾香が何を考えているか悟らせないようにわざと時間をかけてゆっくり上がるパターン。どちらも考えられるが、綾香が来るだろうと思い、オーナーのソウはおすすめメニューを何にするか考えていた。
カランコロンと鋳鉄製の鈴の音が響く。
「明太バタートーストでいい?」と聞こうとしたがすんでのところで留まった。綾香ではなかったのだ。
入ってきたのは理瀬だった。
誰もいないカウンターテーブルを見て3席しかない真ん中の席に座る理瀬。
今にも泣きそうという訳ではないがいつもの覇気がない。
理瀬の口調からまだ未練があることは十分すぎるほどソウに伝わった。
ひとしきり喋って疲れたのか会話が途切れた。
ここぞとばかりにコーヒーを渡すソウ。コーヒーにはリナリアのラテアートが描かれている。
しばらくラテアートを覗き込む理瀬。
ソウは「なんで別れたか」ということよりも理瀬を立ち直させる事を優先する事にした。そしてその手っ取り早い方法が「新しい彼氏を作る」だ。
無理と言われて心理学修士ソウの魂に火がついた。
まだよくわからないといった表情ながらも真剣にきく理瀬。
タイプとか相性とか度外視でソウの口車にまんまと乗ってしまった理瀬はリナリアのラテアートを跡形もなく飲み干した。
そしてなんの真似かは分からないが「世話になったぜ」とだけ言って店を後にした。
「客が立ち直るならはったりなんていくらでもいくらでも言ってやるよ」とソウは笑いながら呟いた。