マスター・ソウの見聞録

マスター・ソウの見聞録『ギンモクセイは惚気歌』

マスター・ソウの見聞録『ギンモクセイは惚気歌』-アイキャッチ

ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。

しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。

しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。

とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。

 

軽快なリズムで階段を登る音がソウの耳に届いた。しかしその軽快さとは裏腹に何か思い詰めたような雑味がかった感情も混ざっている。そんな足音だった。きっと最新型のスマートフォンを買ったのだが、使い方が分からない綾香が自慢をしつつ、使い方が複雑だというクレームを言いに来たのだろう。そんな予想をした。

 

カランコロンと鋳鉄製の鈴が来客を告げる。

恐らく新しいスマートフォンを手に持っているだろうと決めつけていたソウはめんどくさそうにドアの方へ視線を向けた。

しかしそこに立っていたのは綾香ではなく奈々だった。

奈々
奈々
何よ。私じゃ不満だった?

ソウはあてが外れたと言う表情をしていたため奈々がツッコんだ。

ソウ
ソウ
んっあ、いや、奈々が木曜日に来るの珍しいなと思って

適当なことを言ってごまかすソウ。

奈々
奈々
言われてみればそうね。いつも水曜日に来てたからね

誰もいないカウンターテーブルを一目見て3席しかない真ん中の席に座る奈々。

ソウ
ソウ
せやろ。まあ、毎日来てもええけどな
奈々
奈々
そんなことしたら彼氏から「浮気してんのか」って言われるわ
ソウ
ソウ
彼氏はそういうの嫉妬するタイプか?
奈々
奈々
うーんどうだろ。まあ人並程度かな。マスターはそういうの嫉妬する?
ソウ
ソウ
どうやろな。そこまでしない方かな
奈々
奈々
じゃあ彼女が初恋の男と会うって言ったらどう?
ソウ
ソウ
初恋の相手か〜。まあ少しは嫉妬するかもな。まあ言わんでほしいけど
奈々
奈々
そうだよね〜。会わない方がいいかなぁ
ソウ
ソウ
黙って会って、後腐れなく別れるっていうのがベストかなぁ

そう言いながらコーヒーをそっと渡す。そこにはギンモクセイのラテアート。

ラテアート

奈々はラテアートの周りを目で追いながら思い出したかのように口を開いた。

奈々
奈々
え?会った方がいいと思う?
ソウ
ソウ
彼氏と結婚考えてたり、ずっと一緒にいたいって思ったりしてるのであれば、会っといた方がいいんやない?
奈々
奈々
ん?普通逆じゃない?結婚意識してたら会わない方がいいんやない?
ソウ
ソウ
いや、この先今の彼氏とずっと一緒にいるとするやろ。そしたら別れたいとまでは行かないまでも「他の人と一緒になったらどうだったかな」なんて想像するとするやろ
奈々
奈々
めっちゃ喧嘩したらなるな
ソウ
ソウ
その時に「あぁ、あの時初恋の人と会ってたらどうだったんだろう」ってなる可能性もあるやろ
奈々
奈々
なるほどなぁ
ソウ
ソウ
でも逆に会ったとしても「やっぱ今の彼氏の方がいい!」って揺るがなかったらちょっとやそっとのことがあっても「この人より素敵な人はいない」ってなるやろ
奈々
奈々
うん確かに

聞いているのかいないのかよく分からなかったが、ラテアートを見ながら奈々はしみじみ返事をした。しばらく沈黙が続いた後にソウが口を開いた。

ソウ
ソウ
多分だけど奈々が危惧していることは2つやろ。1つは彼氏に悪い。もう1つは万が一初恋の人を好きになったらどうしよう
奈々
奈々
いや、そんなことは…

そんなことはないとは言い切れなかった。もちろん初恋の相手と会って恋に落ちるとは思っていないが、心のどこかに「もしかしたら」という想いが潜んでいた。直接指摘されていたら否定していたが考えさせれて初めてそういう想いがあることに向き合えた。

ソウ
ソウ
もし初恋の相手を好きになったらその時はその時やろ
ソウ
ソウ
まあこれは余談やけどな。会うにしても会わないにしても彼氏にはバレるなよ。別にやましいことしてなくても男は勝手に嫉妬したり、勝手に浮気だと勘違いしたり、勝手に貸しだからなって思ったりする生き物やからな。これは器が大きい小さいやない。そういう性質なんや
奈々
奈々
ありがと。やっぱり会ってみる!それで彼氏のこと好きって再確認してくる!

そう言って奈々はギンモクセイを噛み締めるように飲み込んだ。

ソウ
ソウ
なんだかんだ最後は結局惚気るやん
奈々
奈々
へへ、まあね

晴れた表情とは裏腹にしこりのようなモノは残っている。それでもこれ以上どうすることもできないと思った奈々はバッグを手に取り席を立った。

奈々
奈々
ありがと、また報告しに来るわ
ソウ
ソウ
あーそうそう。多分やけどな。心配している様なことにはならんと思うで
奈々
奈々
どういうこと?
ソウ
ソウ
初恋の彼は当時1番好きな相手だった。でもそれは今の彼氏と会う前やったからな。そう認識すると思うで。ま、楽しんでな
奈々
奈々
どういうこと?
ソウ
ソウ
まあそれだけ奈々も魅力的になったって事や
奈々
奈々
なんかはぐらかされてる気もするけど…。でも、ま、マスターもたまにはいいこと言うんやね

そう言って奈々はスッと店を出て行った。

階段を降りる足音からは雑味が消えていた。

ギンモクセイ