ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
錆びた階段ゆえに足音が来客の気持ちを反映させる。怒っている足音。悲しい足音。喜んでいる足音。今日も今日とてそんな足音を聞きながら来客がどのような感情を携えているのかソウは予想する。
一定のリズムではないが重い足取りではない。これは疲れているが大きな仕事を終わらせて気分を良くしている綾香が来る。ソウはそんな予想をした。
カランコロン。
鋳鉄製の鈴が来客を知らせる。綾香が来ると思っていたソウは思わず「ん？」と言ってしまう。
入って来たのは美麻だった。鋭い美麻に対し面食らってしまったが、なんとか無難な回答が咄嗟にでた。
買ってもらったというところにひっかかった。なぜなら前もブランド物のバッグを買ってもらい自慢していたからだ。
しかしバッグを見せつけてから美麻はどことなく浮かない表情をしていた。
3席しかないカウンターテーブルの真ん中に座り、隣の席にそっとバッグを置いた。そして深いため息をつき口を開く美麻。
ソウは話を中断させないよう静かに美麻にコーヒーを渡す。ディアスキアのラテアートが描かれていた。
聞かなくてもなんて言われるか大体予想はついていた。あまりにも当たり前で、相手を説得させるには十分な言葉だ。それでも何かが引っかかった。
ソウならもっと違う視点で切り込んでくれるのではないかと期待していた自分がいたことに気づいた。
全くもってソウの言う通りだった。今まで視野が狭くなっていたことに気づいた。どっちかを取れば必ず後悔をする。「じゃあどっちもとらなかったら？」美麻の頭の中にダイレクトに声が聞こえた。
安定感はあるけどミュージシャンに勝てない青年実業家。
魅力はあるけど不安要素が多くて青年実業家に勝てないミュージシャン。
どっちも足りない。うん、どっちもたりてない！好きだけどごめん。
何度も心の中で繰り返した。
そんな冗談を言いながら優雅にディアスキアのラテアートを飲んだ。その表情は新たな幸せを期待しているかのようだった。
