ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
階段を登る音がソウの耳に入った。その音は現状に甘んじているような、それでいて、新しい自分を探したいという願望を含んでいるような。そんな足音だった。きっと新しいスマートフォンを買おうとしている綾香が「買いたいけどお金がないからどうしよう」という相談を持ちかけてくるのだろう。そんな予想をした。
カランコロンと鋳鉄製の鈴が来客を告げる。
口にも似た世間話を聞かされるのかと思いながらソウは「フッ」と鼻息を漏らし入口の方を見た。立っていたのは綾香ではなく茜だった。
茜
何よ、なんかがっかりした様な顔して。どうせ綾香ちゃんがくると思ったんでしょ
茜の読みがあまりにも図星だったためソウの口からは続きの言葉が出てこなかった。
茜
そうなん?ま、ええわ。じゃあ彼女とか元カノとかとよく喧嘩した?
ソウ
うーん。喧嘩は少ない方やな。あんま怒ることがないんよ
茜
やっぱ男はそんくらいの方がええよな。私の彼氏すぐ怒るんよ。それで喧嘩になって、結局私の方が謝って
茜
常に構ってないとダメなところ。頼りにされるから「しょうがないなぁ」と思いながらも幸せを感じてまう
ソウは茜にコーヒーを差し出す。そこにはカーネーションのラテアートが描かれていた。
茜
でも、そういうのない?自分がいなきゃ何もできないところが可愛いし、それによって他の女はここまでできないだろうなぁっていう自己満にもなるし
ソウ
まあ分からないでもないな。でもそれで神経すり減らしてたら元も子もないやろ
茜
そうなんよ。頭では分かってるんよ。働きもしない、家事をする訳でもない、性格がいい訳でもない。ダダもこねる。子どもで自分勝手ですぐ怒るちっちゃい奴。でもたまーーーに優しくしてくれて、それにコロっとやられちゃうんよ
ため息を吐きながらコーヒーに視線を落とす茜。
ソウ
まあ一般論として「付き合っててもしょうがない」って言われるんやないか?
茜
そう。まさにそれ。「付き合ってて何になるの?」とか「そんな男別れちゃいなよ」ってセリフは2000回くらい聞いたわ
ソウ
でも別れる決め手がないんやろ。というよりそんなセリフを聞くたびに「ほっといてよ」って思うんやろ
ソウ
「○○しなさい!」って言われたら反発したくなるやつ。例えば「勉強しなさい」って言われたら「今やるところだったのに」って言うのがまさにそれ
ソウ
選択の自由の奪われるから。心理学的に「別れなきゃいけないですよ」っていう選択肢しかない場合、逆に「じゃあ別れたくないんですけど!」ってなってしまうねん
いつになく真面目な表情をするソウに引き込まれる茜。
ソウ
まず、一般的にダメ男と呼ばれるやつって「ほっとけない」って要素が強いんよ
茜
確かに。ほっとけない。「私がいないと何もできないんだから〜」ってやられとる…
ソウ
そういうところに惹かれる女性って多い。というか、できる男と付き合ったら「自分は存在意義があるのだろうか」とか「彼は私がいなくても人生を謳歌できるのではないか」って思って虚無感を与えられるんちゃう?
ソウ
でもそういう男でも、すがりたくなることだっていっぱいあるぞ。例えば仕事がバリバリできてサバサバした女性がいたとしても内心では男性にいっぱい甘えたいし苦手なことだってあるやろ。その時に「男ってほんと分かってない」って思うやろ。それに近いものが男のにもある
ソウ
まあ茜がそのタイプがどうかはさておき、男もそんなんばっかよ。俺も1人で何でもできるキレものって思われてて近寄り難い感じやけど彼女には頼りたいし
茜
マスターがキレ者かどうかはさておき、そんなもんなんやね
ソウ
だから「自分を頼りにしてくれるのはダメ男だけ」って考えん方がええで。基本的にしっかりしてるような男ほど1人のパートナーにしか甘えん傾向にあると思うで
茜はハッとした表情でカーネーションにスプーンを入れ「なるほどね〜」と呟いた。
茜
ほんとに仕事もスポーツもできて「俺1人で何でもできる」って人でも本心で私を頼ってくれるんかな
ソウ
男なんてみんな甘えん坊だ。付き合ったり結婚したりしたら誰でも茜を頼ってくるもんや
茜
それ聞いて安心した!ありがと。また報告しにくるね!
茜は勢いよく店を出て行った。
そして再びドアを開け「あっ別にいい感じの『実は甘えん坊のキレ者』が近くにいてその人の所に行こうとしてる訳じゃないからね」と言って足早に去った。