ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
今日もそんなカフェに1人の客が来ようとしていた。階段を登る足音で分かる。給料日前で財布が寒い綾香がコーヒー、あわよくばトーストを無銭でねだろうとしている。そしてそれをどう切り出そうか悩んでいる。そんな重い足取りだ。
カランコロン
寿鉄製の鈴が来客を知らせる。無銭飲食を企む綾香に厳しい一言でも言ってやろう。そう思い口を開いたがすんでのところで綾香ではなく詩織だと気づく。
詩織
は?前からおかしいおかしい思ってたけどついにここまで来たか
そう言って詩織は三席しかないカウンター席の真ん中に座る。悩みを抱えているのだろうか、表情にどことなくモヤがかかっているように見える。
詩織
ねえマスター。ステータス目当てに付き合う女ってどう思う?
神妙な面持ちでソウに尋ねる詩織。
ソウ
なんや、いきなりやな。ステータス目当て?相手の年収が高いとか、サッカー日本代表にいるとかそういうこと?
詩織
そう。なんかさ、彼氏のステータスが高いことで「自分はすごいんだぞ」って思うことができるじゃん。最初はたまたま好きになった人がそうなのかなって思ってたんだけどさ、私の歴代の彼氏ってみんなその時いるコミュニティ内で最上位のヒエラルキーにいる人だったんだよね
少々口調の早い詩織を落ち着かせるようにソウはゆっくりとコーヒーを差し出す。アンズのラテアートが描かれていた。
カップを受け取り静かにテーブルに置く詩織。短めの息を吐き出し、口を開いた。
詩織
私も最初はそう思ってた。でもそのコミュニティで更に上の人が現れると、彼氏の魅力が薄れてきて「もういいかな」って思うようになっちゃうの。それが3回くらい連続したの。いい加減気づいちゃうよね。「私ってサイテーなやつ」だって
ソウ
部活のエースとか会社の出世頭じゃないと許せない的な?
詩織
まさにそれ。1人目の彼氏はサッカー部のエースだったし、2人目の彼氏は大学で一番TOEICの点数が高かった。3人目の彼氏は同期で1番早く主任になった
詩織
でも何度も続くと気づいちゃう。常に1番であり続ける人なんていないのに、それで相手に冷めるとかどうかしてるよね
詩織
そんなことないでしょ。彼氏が何かで1番の人じゃなきゃやだなんて性格悪すぎじゃん
ここまで感傷的になっている詩織を初めて見たが、ソウは引き続きゆっくり、そしてできるだけクリアに聴こえるように話した。
ソウ
1番を求めたり、1番になりたいと思う人を好きになったりするのは不自然やないやろ。最も分かりやすいのは、「自分は彼氏もしくは彼女の1番の存在でありたい」ってやつな
ソウ
ごく稀に相手の2番手でもいいから…なんて言う奴もおるけど、「じゃあどっちがええねん」って言ったら絶対1番選ぶやろ
ソウ
逆に「あなたの2番でもいい。1番の人ができたらそっちに乗り換えてもいい。だから付き合ってください」ってやつが現れるとするやろ
ソウ
それに対して「自分が2番でもいいから付き合ってくれなんて素敵」って思う子おるやろ
ソウ
でも逆に「何がなんでも1番になりたいって思わない時点で魅力がないんだけど」って思う子もおるやろ
詩織は話の意味は分かるのだがソウの意図していることを理解できずにいた。
ソウ
話を戻すけどさ。詩織の元彼はエースの座から引きずり下ろされてふてくされてなかったか?大学時代の彼はその後必死で英語の勉強をしてたか?同期の彼は抜かれた後それまで以上の努力をしたりやり方を見直してたりしたか?
詩織
いや、みんなひどく落ち込んでた。落ち込んで、自信を無くして愚痴をこぼすようになっていった
いい終わった瞬間、詩織は長い間抱いていた1つの質問の答えに辿り着いた気がした。
詩織
1番の人が好きなのは変わらない。多分その人が2番になったとしてもそれはそれでしょうがないことだと思う。だけど、1番を目指さない人に魅力を感じない!私は1番を目指す人や1番の人に惹かれるってことに気づいた
ソウ
まあ、吹っ切れたならいいんやけどな。コーヒー冷めんで
詩織は綺麗にかかれていたアンズのアートをスプーンでかき混ぜた。
詩織
ねぇ、マスター。前から知りたかったんだけどさ、ラテアートの正しい飲み方ってどういうのなの?
笑いながら聞くその顔からモヤがかった物が消えていた。