ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
そしてマスターのソウは心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する。
長年カフェで働いていると、客が入ってくる前に階段を上る足音だけでその客がどういう心境なのかを当てることが出来る。答え合わせをするわけではないため、思っていた心境とは違うのかもしれないが、答え合わせをしないからこそ自分の考えは100%正しいと思うことが出来た。
階段を上る足音はもの寂しそうな音で不幸感を示していた。きっとバイト代がでた初日に欲しがっていたバッグを買って全額を使い切ってしまい途方に暮れている綾香が来る。きっと今日も「ツケで」と言って会計もせずに帰っていくのだろうという想像をした。階段の音だけでそこまでの先が読めた。
カランコロンと鋳鉄製の鈴が客の来店を知らせる。
いつもより静かな感じはやはり「不幸感」を表していた。「どんな悩み事を相談されるのやら」と思いながらもドアの方を見るソウ。そこにいたのは綾香ではなく、真紀だったため、ソウはつい「あれぇ」と声を出しそうになった。
真紀
何か「あれ? おかしいな?」って顔してない?それとも、私じゃ不満だった?
ソウ
い、いや。そんなことないで。ただハマグリ切らしてたからやべって思ってただけや
ソウ
ところで何か嫌な事あったか?階段上る音が不幸感漂ってたけど
ソウ
まあな。他の心理学修士に分かるかどうかは分からんが俺には分かるな
真紀はそういって3席しかないカンターテーブルの真ん中の席に座った。
真紀
付き合ってる男の人が「距離空けたいから少し別れよ」って言って、女の人が「そんなのやだ」って言うあるあるあるじゃん
自分のギャグが流されたことに対して少し寂しそうにするマスターが口を開く。
真紀
その大問題に直面した美女に対してマスターなら何て言う?
スマホのやり取りをソウに見せる真紀。そこには「なんで付き合ってるか分からなくなって距離空けたいからしばらく別れよう」の文字が…。
じっくり画面を見た後で、愚痴をこぼした。それでいて優しい口調でコーヒーを真紀に差し出す。そこにはアロカシアのラテアート。
ソウ
でもこれは俺の考えやけどな、距離を空けて別れてその後復縁するっていうのは原理的には簡単な事やけどあまりお勧めはせんぞ
ソウ
そもそも一方が別れたくない、一方が距離を空けたいって言うのはお互いの好き度に開きが出過ぎてる状況な訳だけど本質的な問題はそこやない
真紀
え? 私が彼のことめっちゃ好きで彼が冷めてるってことやないの?
ソウ
もちろんその可能性もあるけど根幹部分は違う。相手がどうあれ彼の恋愛観であったり、恋愛感覚が変わったっていうのが正しい
ソウ
2つ目は相手のことを好きかどうかわからなくなった時に使う
ソウ
3つ目は相手のことを以前より気にかけなくなったから使う
真紀の表情は暗くなる。
真紀
1つ目か2つ目だったらもう無理やん。ってか3つ目も2つ目と違いが分からんけど
ソウ
2つ目と3つ目は同じようで全然違う。で、文面から見ると3つ目やな
ソウ
まず「少し別れよ」ってあるから彼は「別れる」っていう言葉を使わない人間ではない。つまり、ある程度感情をストレートに表現することが出来るタイプだから1つ目やない
ソウ
2つ目は好きかどうか分からなくなったって事やけど「なんで付き合ってるか分からなくなって」ってあるから好きな事には変わらない。好きじゃなかったら「好きじゃなくなったから付き合ってても無駄」ってなるけど、分からないっていう事は好きだけど以前とは感覚が違うってことやろうな
ソウ
余裕を持つ。相手が持ってる真紀への好意と真紀が持ってる相手への好意を同程度にする
ラテアートをどうしてやろうか迷いこんでいる真紀。
ソウ
それを同程度まで引き下げる。そうすることで相手に追いかける状況が生まれたり、真紀のことを気にかけたりする感情を作ることが出来る。今は真紀が彼を追ってる状況やろ。彼が追う事もなく、彼が何を言ってもついてくる状態。現に「距離空けたいから別れよう」って言われてもどうにかして一緒にいようとしてるやん
ソウ
いってみればお腹がすく前にご飯が勝手に出てくる状況や。お腹が空いてるから食べるんやなくて、時間やからご飯を食べるっていうのに近いな
ソウ
ま、とにかく、彼氏は真紀に何かをしなくても愛情が降り注がれている。真紀のことは好きなんやけど以前と違って混乱しとるんや。まあ俺の思い込みかもしれんけど
真紀
なるほど。じゃあ具体的に余裕度を上げるってどうすればいいん?
ソウ
彼氏のダメなところを寄せ集めたり他の男の良いところを探してみたり。今、真紀の頭の中は彼で充満してるからそれが薄まったら余裕が生まれる。そしたら彼が追ってくる余白が出来る。最終的に彼は真紀のことを好きなんだって再認識することが出来る。
真紀
なるほど。原理的には簡単やな。でもなんでお勧めせんの?
ソウ
逆転現象が起きることが多いから。他の男の良いところとか探すやろ。そしたら「彼より良くない?」って思ったり、彼の粗が見えたりする。更に空いた期間のうちに彼の存在が小さくなって彼がいなくても大丈夫になる。逆に彼が真紀の存在の大きさに気づいて、よりを戻したいと思う。でも真紀はもうよりを戻さなくてもいいかなって思ってる。そんな流れになると思うで
真紀は「ふーん」と言いながらアロカシアのラテアートをぐちゃぐちゃにしてソウの話を聞き流した。
真紀
うん。夜になったらまた凹むだろうけどね。ねぇ、また報告しに来ていい?
真紀は元気そうに「ばーか」と言って店を後にした。