ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
そしてマスターのソウは心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する。
階段を上る音が一定ではない。店に入ろうか入るまいか迷っている足取りだ。しかし重さは感じられない。恐らく華奢目な女性だという事が想像できた。恐らく綾香だろう。ためらっている理由は何を食べようか迷っているからだろう。そして迷った挙句カルボナーラを食べるんだろうなと想像したソウは仕込みに入ろうとした。
カランコロンと言う鋳鉄製の鈴が鳴る。
「どうせカルボナーラだろ?」と声をかけようとドアの方を向いたが彩香ではなかったため「あれぇ」と間の抜けたような声が出てしまった。
由佳
ふーん。ま、ナポリタンは頼まないからいいわ。っていうか、コーヒー以外ないかと思ってたわ
本当にそんなことで間抜けな声を出したの?という疑いの眼差しを向ける由佳。
ソウ
いやいや、もう10回くらい来てるのにその認知度ってことはないやろ
3席しかないカウンターバーの真ん中に座る。神妙な面持ちの由佳が重い口を開く。
ソウ
いきなり積載量オーバーしてる4tトラック並みの入りやん
由佳
まあそれもあるけどさ。1番は子供の問題よね。間違いなく親権はこっちになるんだろうけど私1人になった時にきっとつらい思いさせちゃうし…
だんだん深刻な表情になっていく由佳に対しコーヒーを差し出すソウ。コーヒーには花のアートが描かれている。
コーヒーに口をつけようとしたが、由佳はゆっくり、カップをテーブルに置き口を開いた。
由佳
そうか?ってそりゃそうでしょ。両親いた方がいいに決まってる
ソウ
常識?由佳の常識では両親が揃ってる方が絶対にいいってことなんか?
由佳
そりゃそうよ。家で遊んだり、旅行したり、両親が揃ってる方がいいでしょ
珍しく真剣な面持ちで由佳を諭すように話すソウ。
ソウ
常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクションでしかない
ソウ
アインシュタインの言葉。常識なんて時代や場所によってコロコロ変わるもんだってことや
ソウ
確かに両親がいた方がいいかも知らんけどその両親がいがみ合ってたら子どもはどう思うか分からんやろ。一緒にいたくないって思うくらい嫌な相手といる姿を見て子どもはどう思うと思うん?
ソウ
もしかしたらそれでも2人がいる方がいいと思うかもしれんけど、別れていいんじゃないと思うかもしれんやろ
ソウ
もちろんこれに答えなんてないし、推測しかできない。結果的に子どもがどう思うかなんて分からん。
ソウ
でも子どもがいるからって自分の希望や幸せを諦める必要はないと俺は思うけどな。子どもが最優先でもいいかも知らんけど、子どものために生きてる訳やないやろ
ガーベラのラテアートをしばらく眺めていた由佳が口を開いた。
由佳
私は子どもが生まれて来て、子ども最優先に考えてきた。夫が仕事の後飲みに行って帰りが遅くなった時にきつく言ったの。「なんで子ども最優先に考えられないわけ」って。時間があるなら子どもの面倒見てよって
由佳
自分の価値観を押し付けちゃってた。常にイライラしてて、お弁当も雑になって、話すこともしなくなって。だから、浮気されたのかな
由佳
なんかさ、子ども産んだら役目終了って自分の中でどこか決めつけてたところがあった。次の主役はこの子なんだって。でもだからって私の人生は終わらない。別に子ども産んだからってその後の幸せを放棄する必要はないよね
由佳はコーヒーを噛み締める様に飲んだ。
由佳
マスターはさ、本当は離婚させないようにこんな話してくれたんでしょ。別れない方がいいよって言ったら私が意地張って離婚すると思って。気づかせてくれてありがと。もう1回夫と話してみる
由佳
ありがとう。また話に来るから。ここに来たらいつも満足して帰れる!
由佳はサッと会計を済ませ店を出ていった。
1人取り残されたマスターは「うそやん」と言いながらも苦笑いして由佳が階段を下りる音を聞いていた。