ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
軽快なその足跡はまだ見ぬ来店客の楽しさや嬉しさを映し出していた。きっと今からくる綾香は何か良いことがあったに違いない。楽しい会話ができるぞと思いながらソウはドアが開くのを待った。
カランコロン
寿鉄特有の来客を知らせる音が店内に響いた。
現れたのは想像していた綾香ではなく優乃だった。慌てて取り繕うソウ。
優乃が来店したのはいつぶりくらいだろうか。セミが鳴いていた季節だったような気がした。
マスターの見当違い甚だしい当てずっぽうに対し優しい笑みで返す優乃。軽い挨拶を済ませ3席しかないカウンターバーの真ん中に座る。
優乃
マスターは女性から優しくされたらどんな感じですか?
優乃
その優しさに応えようと思ったり、同じような優しさを返そうと思ったり、逆に調子に乗ってつけあがっちゃったり
ソウ
うーん。まあありがたく受け取って6割くらいの優しさを返すかなぁ
ソウ
あまり自分からは与えんかなぁ。優しくするのはええんやけど、相手も慣れてしまうやろ。その優しさが当たり前だと思ってその次にはそれ以上の優しさを求めるようになるやん
話しながらコーヒーを優乃に差し出す。コーヒーにはクレマチスのアートが描かれている。
優乃
そうなんですよね。私の彼がまさにそれなんですよ。優しくすると満足することもあるんだけど「前はもっと優しくしてくれたのに」って…
優乃
私が悪いんですかね…。知らず知らずのうちにつけあがっちゃうように仕向けちゃってるんかもしれない
思い詰めた顔でコーヒーを覗き込む優乃。
ソウ
人に優しくするのは悪いことではないと思うけどな。ただそれによって効果を予想したり、相手の変化を期待するっていうのはあまりよろしくないかもな
優乃
自分でも分かってはいるんですよね。時には厳しく接しなければいけないって
優乃
そうですね。「もう無理」って常々思っちゃうんですよ。でも口を開けば「私がやるからいいよ」とか「好きにしていいよ」って言っちゃうの
優乃は指で髪をクルクル巻いている。
ソウの答えはシンプルだった。「優しくし過ぎてもろくなことがない」という考えである。しかしそれを優乃に言ったところで変わるとは思えないし、そんなありきたりなことは既に何回も言われていることだろうと思った。
ソウ
つまり、優乃は見返りを求めているわけでもないし、相手がこうなって欲しいから優しく接してる。ってわけやないやろ
ソウ
そこに意味を持たせる。つまり、優乃が相手に優しく接しているのは怒った時に相手がとんでもない衝撃を受けるためって思い込む
ソウ
例えば一昨日も昨日も怒鳴っている人が今日も怒鳴ってたらどう思う?
ソウ
じゃあ一昨日も昨日も「いいよ気にしないで」ってニコニコしている人がいきなり「あんたなめてんの?」って言ったらどう思う?
ソウ
そう。それ。優乃の優しさはいざという時に恐さを最大限に引き出す為のカモフラージュ。そう思うだけで優しくしている意味合いが変わってくるし、肩の荷が降りる
ソウ
自分が怒った時のことを想像してみて。相手はどんな感じ?
ソウ
優乃はいつでも怒っていい。ただ、怒った時の衝撃は半端ない。そのために優しくしてるだけ
優乃
お〜。私、悪ですね。優しくするの楽しくなってきましたよ
優乃は不敵な笑みを浮かべながらクレマチスを口に入れた。