ソウが経営している喫茶店「ヴィラ」は神原駅から数分歩いた非常に入り組んだ住宅地に店を構えている。海上コンテナを改良した簡易的なカフェで、極上のコーヒーを提供する。
しかしあまりにも細い路地を何回も通らされるためよほど地図を見るのが巧い者か、迷ってもどんどん突き進むことが出来る好奇心旺盛な者しかたどり着くことが出来ない。
しかも店は中二階で錆びた鉄製の階段を上らなければいけず、さらには初見でそれがカフェだと気づくものはまずいないので新規で来る客は極めて少ない。
とにかくマスターのソウはそんな場所で日夜コーヒーを作り客に振舞っている。ただ、他のカフェと違う所は心理学に精通していて、常連客の恋の悩みを解決する点である。
軽快なリズムで階段を登る音がソウの耳に届いた。しかしその軽快さとは裏腹に何か思い詰めたような雑味がかった感情も混ざっている。そんな足音だった。きっと最新型のスマートフォンを買ったのだが、使い方が分からない綾香が自慢をしつつ、使い方が複雑だというクレームを言いに来たのだろう。そんな予想をした。
カランコロンと鋳鉄製の鈴が来客を告げる。
恐らく新しいスマートフォンを手に持っているだろうと決めつけていたソウはめんどくさそうにドアの方へ視線を向けた。
しかしそこに立っていたのは綾香ではなく奈々だった。
ソウはあてが外れたと言う表情をしていたため奈々がツッコんだ。
適当なことを言ってごまかすソウ。
誰もいないカウンターテーブルを一目見て3席しかない真ん中の席に座る奈々。
そう言いながらコーヒーをそっと渡す。そこにはギンモクセイのラテアート。
奈々はラテアートの周りを目で追いながら思い出したかのように口を開いた。
聞いているのかいないのかよく分からなかったが、ラテアートを見ながら奈々はしみじみ返事をした。しばらく沈黙が続いた後にソウが口を開いた。
そんなことはないとは言い切れなかった。もちろん初恋の相手と会って恋に落ちるとは思っていないが、心のどこかに「もしかしたら」という想いが潜んでいた。直接指摘されていたら否定していたが考えさせれて初めてそういう想いがあることに向き合えた。
そう言って奈々はギンモクセイを噛み締めるように飲み込んだ。
晴れた表情とは裏腹にしこりのようなモノは残っている。それでもこれ以上どうすることもできないと思った奈々はバッグを手に取り席を立った。
そう言って奈々はスッと店を出て行った。
階段を降りる足音からは雑味が消えていた。